第61話   殿様の釣 V   平成15年11月25日  

酒井家16代酒井忠良氏が本間美術館で刊行した「垂釣筌」の巻末でこう述べている。

「釣に行く時は必ず漁師に同行して貰いまして、主に夜です・・・・、私どもの釣は大きいのを釣るには・・・。其の当時ですから、今と違って提灯をつけて一晩中岩の上で釣る訳です。・・・・・(省略)

其の漁師も以前から竿で釣る事に名人であった者ですから色々と大きな魚が釣れた時はどうしてあげるの、竿をさかしはどうするのと云うようなことを聞かされまして・・・・(省略)

戒められた事は大きなのを釣る時は必ず立ってはいけない。腰を下して厳重に足かがりを見て・・・、そうしないと引っ張り込まれるから・・・と云う様な事を聞かされました。」

酒井忠良氏は釣りが好きで度々釣りをなされ数々の大物を上げている。昭和159月大岩川の鯛釣のお供した甥の酒井忠一氏が子供の頃、午前一時に二尺六寸二分と云う赤鯛の大物を釣り上げた。忠良氏がズルズル引き込まれるので腰に自分もしがみついているのに「早く掬え〜、早く掬え〜」と獲物がまだ見えないのに・・・と其の時の様子を語っている。三尺の赤鯛を目標に釣りをなされていたが、これが最高であったと云う

この師匠の漁師は長右衛門と云って鶴岡市の大山(昔は天領であった)から五十川(現温海町五十川)の大工の家に婿養子となったが、大工より釣が好きであった。幕末のある晩に長右衛門がこっそり家を抜け出して釣に行った。家族の者は当然家出をしたものと勘違いして親族会議をしていた所一尺二、三寸の黒鯛60匹を釣って帰って来た。それを見た親戚一堂の者、漁師になるのを了承したと云われた人物である。この話は井伏鱒二の「庄内竿」にも載っている。

長右衛門と云う師匠が良かったからか、現在では見る事が出来ない二尺近い石鯛(鶴岡では鷹羽=タカバとか鷹の羽と云う)や岸からでは決して釣る事が出来ない三尺近い真鯛などを四間の延べ竿の庄内竿で見事釣り上げている。其の当時のテグスは今と違って弱い物であったから良く釣り上げたと唯々感心するばかりである。それにもまして良く竹の延竿でこのような大物を上げたと云う事も釣師としての技術も一流であった事と推察できる。

当時のテグス(天蚕糸)は、中国からの輸入品で56本撚った物をハリスにして、スガイト(蚕糸)を何本か撚った物を浜茄子で染めた物を使っていたそうだ。元が絹糸であるから今のカーボン製の糸と比べる事は酷である。その様な弱い仕掛けで、細い庄内竿の長竿を使い、二尺の石鯛や三尺に近い真鯛を上げていたなんて今の釣師には信じられない事だらけである。

この殿様は庄内竿の愛好者で、ことに細身で優美な上林義勝の上林竿がお気に入りで愛用していたという。


参考図書:「垂釣筌」、「釣師 釣り場」